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私の歩んだ道 その2 党本部〜候補者

日本共産党中央委員会に勤務(1973年〜)

私は、大阪府委員会の推薦を受け、1973年から日本共産党中央委員会の経済政策委員として働くことになりました。

このときの政策委員長は上田耕一郎さん、経済政策委員長は工藤晃さんでした。上田さんは、しばらくして参議院議員となり、工藤晃さんは衆議院議員となりました。

当時は、第一次石油ショックが起こって大変な混乱をまねいた時期でしたので、私は、経済政策委員会でエネルギー問題を担当することになりました。1977年に発表された日本共産党の『日本経済への提言』のなかの「自主的・総合的エネルギー政策」を執筆した体験は、その後、私自身の大きな財産になっています。この『日本経済への提言』は、5年で日本経済を再建するという展望を、日本共産党としてはじめて示したものとして、各方面でたいへん大きな反響を呼びました。

私が29歳のとき、ある電力業界の雑誌が企画した「新春政党座談会」に出席。これが、私にとっては、自民党、社会党、公明党の国会議員とのはじめての論戦でした。このとき、「石炭を閉山させ石油に切り替えていった政府の責任」を追及したことを覚えております。

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現場に出かけて声を聞き政策をつくる

【写真】夕張新鉱大事故調査後の記者会見(1982年)

政策をつくるうえで、労働者のたたかいの現場にいって生の声を聞くことがどんなに大切かを実感したのが、1982年の夕張新坑の大事故です。党の調査団の一員として、ただちに現場にかけつけて調査を行い、現地の労働者といっしょにつくったのが「夕張新鉱の再建政策」でした。その後も、新日鉄の人減らし「合理化」でも、工藤晃さんとともに釜石や八幡に出かけ、政策活動をすすめました。

1987年にたずさわったのが、「大資本による産業“空洞化”をゆるさず、国民本位の経済再建を」という政策論文でした。これも、「赤旗」に発表されると、当時としてはめずらしく党本部に何本も電話がかかってくるなど、大きな反響を呼びました。

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参議院の比例代表候補として全国を駆け回る(1983〜89年)

【写真】「朝日新聞」の記事 全体

私がはじめて候補者となったのは、参議院に比例代表選挙が導入された1983年でした。日本共産党は、25名の比例代表の候補者名簿を出しましたが、私は、25番目の最下位候補でした。

たいへん面白かったのは、比例代表選挙が初めてということもあって、各党の最下位候補に注目が集まったことです。私にも、インタビューがどんどん来たので驚きました。他党のばあい、「どうして私が最下位なのか」と嘆く候補が多かったのですが、私は「全国数十万人の党員のなかから25人のひとりに選んでもらって光栄です。全力で頑張ります」と答えました。「最下位候補のなかで自分を積極的に評価したのは共産党の候補だけ」と、当時の「朝日新聞」は書いてくれました。

【写真】「朝日新聞」の記事 該当部分

どんな演説をしたと思いますか。──「上から読んだら宮本顕治、下から読んだら佐々木憲昭。武蔵と小次郎の連合戦線だ」。こんな破れかぶれの演説が、結構うけたりしたものでした。

私は、83年、86年、89年と3回の参議院選挙で比例代表候補を体験しました。初めは25番目、次は12番目、そのつぎは6番目と名簿順位は上がりましたが、残念なことに当選できませんでした。

この候補者の体験は、私にとって大きな収穫でした。なぜかというと、全国を駆け回ることによって、その地方がどのような特徴をもっているか、どんな産業が中心かなど、次第に“土地勘”が働くようになり視野が大きくひらけたからです。

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旧東京7区の衆議院候補として(1990年〜94年)

【写真】米軍横田基地を視察

私が、衆議院議員の候補者として活動をするようになったのは、1990年9月からです。当時は、まだ中選挙区でした。私は、それまでの工藤晃衆議院議員の後を継いで、旧東京七区(東京の多摩地域で武蔵野市や立川市など15市で構成)から立候補しました。選挙があったのは、1993年7月。都議選のさなかに解散があったため、準備不足のなかでたたかわざるをえなくなり、新人のため知名度も低く、たいへん苦労しました。

このときは、議席に届かず残念な結果に終わりました。そのうえ、開票がおこなわれたその日に、北海道の父の訃報が入るという悲しみも加わりました。私は、落ち込む気持ちを立て直し“捲土重来”を期して次の選挙にそなえる決意を固めておりました。

ところがその直後、選挙制度が大きく変えられました。小選挙区比例代表制の導入が国会で強行されたからです。小選挙区制は民意を著しく歪めるものですから、私たちは当然これに正面から反対しました。しかし、“多勢に無勢”でした。

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